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コミュニケーションにおいて「障害は文化」かもしれない。

先日行った場所で、職員さんと話をしていると、近づいてきた人がいた。障害名はわからないけれど、車椅子に乗っていて、50音の文字ボードが見えた。職員さんが話を振ってくれたので、私もその時持ってきていたものについて説明したのだけれど、時間がなかったのと、文字ボードに関する説明はしてもらえなかったので、一方的に話すことに...。

それでも持ってたものが写真だったので、比較的通じたか?と思うのだけれど。
話が終わったので、私は2人に挨拶して帰った。


「こちらは○○さん、こちらは△△さん」と紹介してもらって、どうやって話せばいいかざっくり説明してもらって、というプロセスはあったほうがいいと思った。
その時だけ「通訳」に変身してもらう。


なんだろう。あきらかに英語圏の人だったら、いざとなったら単語を並べればわかる、という安心感がある。でも、そうじゃないとひるむ。どうすれば通じるのか、ぱっとはわからないから。そういうときに、「通訳」がいると心強い。
しかも、こちらも耳が悪いので、相手の発音が大きくてはっきりしてる方がいいし、そうでないなら文字ベースの方がありがたかったり。


昨日のエントリで書いたけれど、自閉症の人だったら通じる(ような気がする)。それはその繰り返し加減とか記憶のポイントとか、目が合わない感じとかが自分と共通するところを探せるから。


で、それぞれの障害特性に応じて、通じやすい「お作法」みたいなものがあって、それを共有しないと、うまくコミュニケーション取れないんじゃないかと。
で、それは職員さんが全部知ってればいいってものではなくて、私のようにたまに訪れる外部の人にもわかりやすいようなコミュニケーションシートみたいなものがあれば、とまどいを減らして、コミュニケーションとりやすくなると思う。


でも、職員さん、ついつい「ジャッジする視線」になってないかな。それを感じると更にこちらはひるんでしまう。


(追記)
よく考えたら、私が「いつでも来てくださっていいですよ」という言葉を真に受けて(!)、空気読まずにふらっと来たんだった。忙しかっただろう...。


以前書いた障害と文化に関するエントリ。
障害は文化か。