支援は自分で組み立てるしかないのかも

最初「作る」と書いて「組み立てる」に変えた。たぶんそれでいい。
支援やサービスを受ける側として、上手になる、ということを最近たまに考える。


最初に思ったのは、診断を受けようとしていた頃。「最近そういう人増えているんですよね(失笑)」という声にめげずにどうやって専門医のところにたどり着くか。診断は「受ける」ものではなく「得る」ものだとつくづく思った。そういうコンテンツも作成した。
専門医を見つけたら見つけたで、「何をしてほしいか」ということをはっきり言ったら相手がほっとしたのを感じた。
その後「患者学」という概念を知った。医者と患者の関係性は圧倒的に医者優位だから、いかに患者はかしこくなるか、という話だったと思う。


辻井先生の講演で「相談上手になってほしい」というような話題が出ていた。A41枚に自分の特徴をまとめるとか。こちらにメモがある。


発達障害を持って相談上手になるのはなかなか難しい。発達障害は、私にとっては「自己概念の変更の障害」で、生まれつきなのに途中でアイデンティティが変わる、というややこしさがある。
長年経たないと自分の障害の付き合い方は上手にならない。何度か書いているけれど私には軽度聴覚障害があって、「手術をしても直らない」と耳鼻科ではっきり言われてから20年を越えるキャリアがある。思春期の葛藤も経て、今は複数の選択肢(流す、説明する、補聴器をする)から場面と相手の関係性に応じて選べるようになっている。聞こえづらいことを悲しく思うどころか、そのおかげで本来苦手なはずの「空気を読む」能力が養われたとさえ思っているし、悪口だってあんまり聞こえないからのんびりしていられる。
発達障害は診断されてからやっとこの春で6年。20年とは比較にならない。大人になっている分、時間の短縮はしていけるかもしれないけれど、心の底に染み渡るのは時間がかかる。


診断された直後に、「障害=支援が必要」と反射的に思ってしまった時期があった。障害に関するイメージが貧弱で、ステレオタイプだったと思う。各種障害も、これまでニーズをはっきりさせて支援を勝ち取ってきた歴史があるはず。


ちょっと違う話。
発達障害支援センターに行って思ったこと。「相談」には、何か自分に受けられるサービスを探しに行くというよりも、発達障害に欠けがちな「リアリティチェック」機能があること。相談=口に出してみる、相手の反応が返ってくるというだけでとても意義がある。
支援・サービス側も、これまで培ってきたシステムがある。そも枠組みに沿ってサービスをしようとする。そこに自分がフィットしない場合は、すり合わせていく努力が必要。けっこう大変で難しい。
発達障害は歴史が浅い。同じく見えない障害である精神障害でさえ十分なサービスは受けられない現状、更に工夫が必要。理解しにくいので、支援側もどうしていいかわからない、という手探り感があるようだ。


id:ngmkzさん経由で知った、
S嬢 はてな - 支援を待つよりまず仲間より

 呆然と支援を待っていても、支援はなかなか向こうからはやってこない。福祉ってのもほとんどが「申請主義」、つまり「自分で言わなければ何もない」。「第一義的に親の責任」だからこそ、呆然と待っているのではなくまず動こうよ、と思うんだけど。そして支援支援って待ってたら、まず動く力ってのが養われない気がするんだけど。

そう思う。ただ人によって動ける範囲は違う。能力も環境も違う。動ける人の軌跡をたどって補強していくことにも意義がある。
自分のできる範囲で、サービスをいくつか組みあわせて自分にあったサービスを作る。それを共有する。他の人の組み合わせ方を参考にする。そういうサイクルを回していきたい。


とりあえず、この半年間の自分の仕事に関する試みで、何が役に立ったか、どう役に立ったかを振り返っていこうと思う。