フラッシュバックと記憶の整理

春のフラッシュバックと夏のフラッシュバックについて。
春は、2年間完全に封じ込め、忘れようとしていたことを、当時の知り合いに会ったことで噴出すように思い出し、処理し切れなくて病気の状態まで移行。生活のペースを落とせなかったこともよくなかった。


夏は、春の状態が回復したころに、突然6年前のことを思い出した。当時はわからなかったことを急に理解した。苦しさのあまりに、当時のメールや書いたものを全部読み返した。(コンピュータ&ネットワーク漬けだったので記録が残っていた)


密度の濃い息が詰まるような人間関係、閉鎖的な環境の中、さらに事態を自分でややこしくするようなことをしていて、慢性的に睡眠不足、ストレスがかかり、判断力はどんどん低下していった。だからずっとこの頃のことは思い出せなかった。自分の出したメール、人からもらったメールから、時系列に出来事をつなぎ合わせると、断片的な記憶がきれいにまとまって、一部の記憶だけでずっとこうだと思い込んでいたことが違うのではないかということがはっきりしてきた。被害者意識を持っていたことが、自分も今思えば悪いなと思うこともあったし、利用されてたばかりではなく、自分でも利用していたこともわかった。逆に人のあたたかい気持ちが、言葉に囚われるあまり自分に伝わっていなかったこともわかった。


つらかったのは、もう少しで手に入るはずだったものが失われたこと。タイミングが合わなかったこと。ASじゃなければ容易に手に入ったであろうということ。大きく人生が変わってしまったこと。うまくいけば「普通」のふりをしていられたであろうということ。そして全てが後から理解でき、間に合わないということ。


そういう渦巻く感情を言葉でなんとか整理することで、記憶の処理ができてきたのだと思う。この件を終わらせることが目的で1通だけメールも書いた。返事は来なかったけれど、それも含めて気が済んだ。感情に区切りをつけるための処儀式、というのは皆自然にやっているように見える。今まであまりしたことがないのだけれど。


今でも毎日のようにふと思い出すのだけれど、痛みは軽く、流せるようになっている。夢にも見るけれど、これも処理の一過程だと思うようにしている。処理をしなければ、繰り返されるフラッシュバックか、持ち前の空想癖とくっついた都合のいい記憶の再現のどちらかを続けるしかなかっただろう。


何か自分にとって許容範囲外のことが起こった場合、対処できずに逃げ出してしまうのが、後のフラッシュバックを生んでいる気もする。その場その場で解決していければなぁ。